第8~10回では競技場にスポットを当てたが、五輪施設のもう一つの柱となるのが、選手や役員の宿泊施設などを配置するオリンピック村(選手村)だ。真駒内地区を対象に整備され、競技場と入れ替わるように1970年度から工事が開始。同地区発展の礎となった。
■「警察学校跡」に決定
オリンピック村の整備計画は、札幌オリンピック冬季大会組織委員会(以下、組織委)に設けられた、競技および施設専門委員会やオリンピック村小委員会で検討された。詳細については同小委の下部組織が原案をまとめ、それを上部組織が了承する形で決められていった。
建設地は、札幌市五輪招致委員会事務局が招致決定前に“青写真”としてまとめた段階では「真駒内ゴルフ場跡」だったが、決定したのは「真駒内の警察学校跡」。「札幌オリンピック準備のあゆみ」(札幌市オリンピック準備室作成)を見ると、66年9月に開かれた第1回オリンピック村小委で内定し、翌年正式に決まっている。
■種畜場から始まる歴史
ここでは、五輪を契機に発展を遂げた真駒内地区について少々触れておきたい。 その歴史は、開拓使に招かれて来道した米国人エドウィン・ダンによる牧牛場開設(開拓使廃止後は、農商務省所管の「真駒内種畜場」)から始まる。1876(明治9)年のことだ。
本道における酪農・畜産業普及の拠点となった種畜場は、戦後の1946年に米軍に接収され、進駐軍のキャンプ・クロフォードに変った。
接収地の返還は55年から始まる。まず北側の敷地が陸上自衛隊の駐屯地となり、進駐軍の家族が住む民住地区だった南側では、返還が終わった59年から道による真駒内住宅団地の建設がスタートしている。
58年12月、同じ南側に進駐軍の兵舎や学校など活用する形で道警の警察学校が移ってきている。同学校は68年11月、現在地の真駒内南町5丁目に移転。その跡地がオリンピック村となる。
同じく真駒内地区に建設されたスピードスケート競技場と屋内スケート競技場の敷地は、道が運営していた真駒内ゴルフ場跡だが、その前身はキャンプ・クロフォードのゴルフ場。さらにさかのぼると種畜場にたどり着く。
■宿舎は合計2200戸を想定
オリンピック村の規模や内容は、第10回冬季大会(68年2月)の開催地であるグルノーブル(フランス)などを参考にしながら固めていった。その役割を担ったのが、オリンピック村小委だ。
計画概要が本紙に登場したのが、68年7月9日付。記事は「オリンピツク村、プレスハウス、組織委の宿舎として合計二千二百戸の住宅を建設し、これをあてる計画案を打ち出した。着工は四十五年五月を予定している」と伝える。前日(同年7月8日)開かれたオリンピック村小委の建設分科会で公表されたものと思われる。
選手・役員などの宿泊施設は日本住宅公団が建設する800戸。プレスハウスも800戸(外国人向け450戸、日本人向け350戸)で、外国人向けが日本住宅公団、日本人向けは道か市のいずれかが建設する公営住宅を充てるとしている。組織委宿舎は600戸で、道か市が建設。各宿泊施設は建設主体が所有するが、72年2月3~13日の大会中を含めた開村期間(1月12日~2月17日)、組織委が借用する形態とした。
■施設配置の原案固まる
宿泊施設の戸数や建設主体がおおむね固まったことで、次ぎに取り掛かったのが、施設の配置などに関する基本計画の立案。これは基本計画分科会が中心的役割を担う。第1回の会合が68年11月に開かれ、69年5月の組織委実行委員会議で原案が了承されている。
配置図を見ていただくと分かりやすいが、警察学校跡のAブロック(15.7ha)には、男子、女子選手の宿舎のほか、オリンピック村運営本部、食堂、プレスハウス、従業員住宅などを配置。道路を隔てて南側に位置するBブロック(2.6ha)には、レクリエーション・サービスセンター施設とトレーニング広場が整備されることになった。両ブロックを連絡する歩道橋も設けた。
選手などの宿舎となる住宅は日本住宅公団が建設主体となったが、開催期間限定で使用する仮設物であるオリンピック村運営本部(S+W造、平屋、延べ3224m²)と食堂(S+W造、平屋、延べ7950m²)などは組織委が発注した。
Bブロックには、選手の娯楽や交流の場となるインターナショナルクラブ、ショッピングセンター、理容・美容店、銀行などが入ったサービス施設(RC造、2階、延べ2420m²)を北海道拓殖銀行系列の北海道土地が建設。施工は地崎組が担当した。
札幌振興公社が建設主体となった2棟構成のレクリエーション施設(RC造、3階、延べ2900m²、S造、平屋、延べ800m²)には劇場、サウナ室、修理・ワックス室などが入った。五輪後は、72年4月から南区役所の仮庁舎となり、73年4月からは本来の用途である小学校として使われている。施工は伊藤組土建。
サービス、レクリエーション施設とも71年5月に着工し、同年12月に完成している。
■男子選手宿舎は7つの工区
宿舎の工事発注を報じる記事が掲載されたのが、68年12月18日付。警察学校跡に建てるオリンピック村の男子選手宿舎を5つの工区に分割し、70年6月に指名発送するという内容だ。発注業務は日本住宅公団から委託された北海道開発局営繕部が担うことになった。
70年3月30日付では、開発局営繕部の690戸に加え、北海道住宅供給公社が発注する582戸の発注見通しを伝えた。初弾工事(11階、66戸の建物が2棟)は女子選手の宿舎で、4月14日に入札され、主体を戸田建設が3億7960万円で落札。各階6戸の住戸を雁行型にずらして配置したこの高層住宅は、今でも真駒内地区のランドマークとなっている。選手宿舎で唯一エレベーターが設置された建物でもある。
開発局営繕部発注分については、69年12月18日付で報じた男子選手宿舎の5つの工区割りが、「地元業者の入り込む余地がないとの意見が強く、工区を再検討することも考えている。道側の強い要望もあり、結局は七―八工区程度に落ちつく公算が強い」(70年3月30日付)としている。7つの工区に分割された入札は7月27日に行われ、全件随交の末、成契となった。
このほか、組織委によるオリンピック村運営本部と食堂は71年に発注、完成。運営本部は熊谷組、食堂は竹中工務店が施工した。
■多くの施設を設計JVが担当
オリンピック村の計画立案には、オリンピック村小委の委員でもあった北大工学部建築工学科教授の太田実氏が関わった。施設設計の多くは、都市設計研究所、北海道開発コンサルタント、集団制作建築事務所の3社で構成する「オリンピック村設計共同企業体」が担い、太田氏も監修として参画。他の設計事務所も協力事務所として支えた。
公共共同住宅の標準タイプとして開発局営繕部が設計した男子選手宿舎と、石本建築事務所によるレクリエーション施設(学校)を除き、同設計共同企業体が手掛けている。
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